読書感想3

 ゆく年があり、来る年がある。

 除夜の鐘は大晦日の夜に響きわたり、時計の針は0時に向けて回り続ける。街に漂う人々は通り過ぎてゆく時間を静かに見守る。

 一年、また一年と時は過ぎていく。我々が意識しなくとも、それは絶え間無く流れ続ける。

 

 連続的な時間の中で、人々はどのように過ごしているのだろう。

 人は未来を知ることはできず、過去を忘れることができる。認識というものは断片的なもので、都合の良いようにいくらでも解釈することができる。幸せなことだけを想像し、辛かったことは無かったことにする。そうして日々の欠片を必要な分だけ寄せ集め、それを自分とする。

 では、拾い集められなかったものたちはどこへ行くのだろうか。失われたものたちはどこに属せば良いのだろうか。

 

「断片的なものの社会学」岸 政彦

 

 社会学というものは、流行や社会問題といった人間によって引き起こされる様々な現象を、それらがどのように形成されたのか習慣や伝統、地域性といった人々の生活の流れから汲み取り、それらを一般化する学問だ。

 多くの実例を並べ、それらを使って帰納的に結論を導き出す。インターネットやその他メディアから情報を収集し、あるいは特定の生活を送っている人々に対してインタビューを行い、それらに共通する項目をまとめることによって出来上がる。

 

 一方で、集められた情報の中にはあまりに個人的過ぎて一般化することのできないものや、逆に普遍的過ぎてわざわざ取り上げる必要のないものも、もちろん含まれている。誰しもが聞き手にとって都合の良い生活や、興味を惹かれる特別な経験を常に携えているわけではない。

 

 この本では、それら共通項として拾い上げられることがなかった、社会学足り得なかった断片たちが紹介されている。物語としての始まりや終わりはない。ただそこでたまたま起きた、あるいは思いついた取り留めのない事柄が羅列されている。

 

 路上で弾き語りをしている中年男性や風俗嬢との対話、香港の刑務所に入っていたという男の話。一つ一つの背景を取り上げれば確かに特殊な人々ではあるが、当たり前のことだが彼らにも特殊ではない日常を持っている。風俗嬢であろうが前科持ちであろうが、各々の趣味を楽しむし、ごく普通の家族や友人だっている。そんなものを記事や論文にしたところで特に真新しい発見を提示できる訳ではない。そして、そういったものは我々の日常にも数多く潜んでおり、たいていの場合は何事もなく忘れ去られていく。だれも一週間前に食べた夕食の内容や、人と交わした世間話の全てを憶えていようとは思わない。そんな些細な物事は記憶には残らない、残す必要がない。

 一方で、当たり前の日常が特別な意味を持つこともある。

 映画やドラマで、ありふれた日常が壊れて初めてそのかけがえの無さに気づくという展開を目にしたことがあるはずだ。家族、恋人、仕事や学校といった当たり前にあったものを失ったときの喪失感。悲劇や事件が起きて初めて、我々は当たり前の日常の大切さに気づくことができる。永遠など存在せず、日々の暮らしの中にある些末な断片たち一つ一つがかけがえのないものであったのだと感じる。

 そしてこの日常は、当然のことながら誰もが持っている。通勤電車の会社員や学生、街を歩く若者たち、顔も名前も知ることのない人々。その数だけ日常がある。

 しかしながら、自分の日常のかけがえのなさに気づいていたとしても、彼らの日常のかけがえのなさを知ることはない。もし彼らの中に、日常のかけがえのなさを知らない者がいたとしたら。その日常はもちろん我々も知る由もない。そうなってしまうと、その日常は誰にも気づかれることなく、ただその場を通り過ぎていくだけとなる。そして、このようなことは世界中で起きている。

 

“そこに最初から存在し、そして失われることもなく、だが誰の目にも触れられないもの”たち。断片たちは、永遠に知られることなく所在なく漂う。

 

   他人の日常に僕らはどれだけ触れることができるのだろうか。その美しくも残酷に捨てられていく日常に。それはどうのように頑張っても触れることのできないものなのかもしれない。

 人間は本来的に孤独である。こんなにも多くの人で溢れかえっているのに、お互いを理解することは非常に難しい。知ることは難しい。

 だからといって全ての物事を悲観的に見てしまうことは間違っている。全てを理解しようとする必要はどこにもない。全ての人間を救うことはできない。

 ただ、隣にいる愛する人の手をしっかりと握っていよう。どんなに時に流されていこうとも、決して離してはいけないものがある。

 手の届く人たちとの何でもない日常を大切にすることだけが、いまの僕にできる精一杯のことなのだ。