読書感想2

「ねぇ、163cmなんだって」

「え、なに?」

「桜の花の落ちるスピード。163cm」

 

 

 

 

 そんな訳はない。それはぼくの身長だ。

 

 子どものころ、自分の住んでいる環境がどうしても嫌で、大人になったら好きなところに行って、好きなことができると思い込んでいた。

 たぶんそれはぼくに限った話ではなく、一般的な子どもが抱く、一般的な感情だと思う。勉強がどうだ、部活がどうだ、門限がどうだ。親や教師にしつこく言われる日々。大人になったら自分の好きな世界を作りあげてやるのだと。そういった時期は誰にでもあったはずだ。

 

 ぼくは今と変わらず幼い頃から背が小さく、体育の整列のときは常に一番前で腰に手を当てていた。本屋に行くと上の棚に手が届かず、店員に頼むか、側にある踏み台を引きずって、そこからさらに背伸びをしてなんとか指先を背表紙に引っ掛けることができた。

 大人になると大きくなれる。今とは違った世界が待ち受けている。そう信じて成長期が訪れるのを心待ちにする。世界は広く、身長と年齢が増せば、いつの日かもっと遠くに手が届く日がやって来るのだろう。期待に胸は膨らむ。

 

 やがて中三になると一年に10cm近く伸び始める。心躍る日々の到来だ。自分より大きかった女の子たちを、いつの間にかちょっとだけ見下すことができるようになる。声も低くなり始める。これでぼくも大人の階段に一歩足を踏み入れたのだと。嬉しくてたまらなかった。

 まあ、そんなのもつかの間で、高三になるとぼくの成長は止まった。柱の傷はいっこうに更新されることはなく、二重、三重に線が描かれる。いつまでたっても身長は163cmのままだった。

 

 

 現実とはそういうものだ。

 

 

 それからぼくは東京の大学へ進学し、今では立派に会社勤めをしている。十分に大人になったはずだ。

 それでも、時折思う。自分はどこにも行けていない。世界はいっこうに広がらない。27歳を迎えたいま、なぜ自分はこんなところにいるのだろう。本屋の一番上の棚にも、期待していた世界にも手が届くことはなかった。

 

 

 

 「ティファニーで朝食を」は、ぼくが最も好きな小説の一つだ。

 

 おそらく、オードリー・ヘップバーン主演の古い映画の方が有名だろう。まあ、この映画はちゃっかりラブロマンス的に仕上げられ、試写会で初めて目にしたカポーティはあまりの違いに驚き、椅子から転げ落ちたという。

 

 主人公が語り手となる形式をとり、ホリー・ゴライトリーという一人の女性を描いた物語だ。ホリーは言うなれば、天真爛漫、自由奔放といった感じでニューヨークの街中を闊歩し、毎晩のように自宅に男たちを呼び込みパーティを繰り広げる生活を送っていた。

 主人公はホリーの上階に住んでおり、たびたび彼女に振り回されることになる。鍵をなくしたと彼の部屋のチャイムを鳴らし、変な男に追い回されていると非常階段から窓を叩く。深夜でも早朝でも関係なく。

 それでも彼女は魅力的で、どこか親しく思えてしまう瞬間を持ち合わせていた。それはおそらく、彼女のそのきらびやかな生活の中に、確かに潜んでいる影の所為なのだろう。わがままな女だと思う一方で、ときおり彼女の幼さ、無邪気さが見え隠れする。そして何より、彼女が抱え込んでいた世界に対する不安を見逃すことはできなかった。

 

“自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、わたしはなんにも所有したくないの”

 

 彼女は自分が飼っている猫に名前を付けずにでいた。それは自分がなにかを所有するのを拒んでいるということだけではなく、むしろ自分の方こそどこにも、何ものにも所有されていたくないという思いから来るものだったのだろう。きっと自分という存在をしっかり受け止めてくれる世界が、ここではないどこかにあるはずだ。たとえばティファニーのような。

 彼女はそんな不安をごまかすかのように、セレブリティの一員として派手な日々を繰り返した。

 

 そしてある日、ちょっとした手違いから警察に追われることとなる。その出来事は新聞の記事を通して世間に広まる。親しくしていた人々はあっという間に彼女との関係から身を引いていく。

 よくある話だ、彼女には何も残らなかった。

 それについては彼女も当然のことだとわかっていた。なにかを所有することも、何ものかに所有されることも自分から拒んでいたのだから。

 

 ここは彼女の場所ではなかった。

 

 それでも彼女はあきらめきれず、ちゃんと腰をすえられる場所を求めた。その思いを信じて、南米へと旅立っていった。

 

 そしてある日、主人公のもとに葉書が届く。彼女はブエノスアイレスで元気に過ごしているという。それを読んで思うのだった、彼女は自分の居場所を見つけることができたのだろうか。

 

 ホリーはきっと見つけることができたのだろう、そうでなくては困る。ぼくとしても27歳といっても、日本人の平均寿命でいえばまだまだ先は長い。恐ろしく長い。

 たとえ身長が163cmしかなかったとしても、いつの日か自分の居場所を見つけることができるはずなのだ。それまでしっかり背伸びして、高く手を伸ばしていたい。