祝日ラプソディ4

夏というのは嫌なものだ、汗だらけのTシャツとそれにしがみつく自分の体臭がぼくを包み込んでくる。

「梅雨が明けたと思ったら、いきなりこれだよ」
「仕方ないだろ、これが夏っていうものだし、四季があるだけありがたいと思ったほうがいい」きみは言う。
「そんなものだろうか、地球は1日に一周するし、1年に太陽の周りを一周するものじゃないか」ぼくは返す。
「きみの世界はね、そうじゃない場所もたしかに存在するんだよ。ぼくの住んでるところは一年中ほどよく心地いい場所だし、ぼくには夏のこの時期しか帰ってこれないしないね」
「ほどよくか、そういうところに住んだみたいな」
「それほどいいものじゃない。なにも変わらないということは、なにも起きないことと一緒だよ。きみもあそこに行けばわかる」
「じゃあ行ってみようかな、ぼくも連れてってくれよ」
「よしてくれ、きみにはまだ早い。そう焦らず、この不快な世界をじっくり堪能しな」
「不快を堪能しろって、よくわからないよ」
「そういうものさ、失ってはじめてわかる」
彼はそう言って次の朝には消えていった。


夏のこの時期になると再び現れるお盆の亡霊だった。

祝日ラプソディ3

友人が馬に乗ってやって来た。

黒くて力強い、丁寧に躾けられた上品な馬だ。きみも見ればわかる。彼もそれをわかっているのだろう。ぼくはそれに見惚れて声をかけるのを忘れてしまっていた。

「やあ、久しぶり。元気にやっていたか」
ぼくはそれに答えずやはり馬を眺めている。それはとても美しく、今まで見たことのある中で最も馬以上でなく、馬以下でもない馬だ。
「こいつか?きみが見惚れるのも無理はない。あれから長い時間が経ったからね。きみに会うためにここまでやって来たんだ。ほんとうに、長い時間だった。もう忘れられてしまったかと思ったよ。」
ぼくは自分の中でそこにある全てを飲み込んで、気持ちを整えた。
「そうだね、久しぶりだ。最後に会ったのはいつのことだったろう。きみのことを忘れるはずがないだろう、また会えて嬉しいよ。」
「そう言ってもらえるとぼくも嬉しい。」彼は馬から降りてそいつを軽く撫でてあげた。そうするとその馬は軽く首を下げてからその場を離れていった。
「積もる話もあるだろう。ちょっとお茶でも飲みながらきみのことを話してくれよ。」
ぼくが答える間も無く彼はドアを開けてぼくの家へと入っていく。
「お前も変わらないな。おれが出て行った時のままじゃないか。」
彼は自分で食器棚からカップを取り出しお湯を沸かしてお茶を注いだ。
「ああ、確かにそうかもしれない。染み付いた生活はそんな簡単に変えられるものじゃないからな。」
それからぼくらは昼夜を忘れ昔話に耽った。今の話も未来の話もない。彼と語る物事は全て過去のものだ。古い記憶を手繰り寄せながら、ああだったこうだったとひたすらに話し続けた。
そして4日目の夜、彼は玄関の扉を開けてぼくの家から出て行った。来た時とは違って豊満な牛が大きな荷物を携えて彼を待っていた。
「ありがとう、きみと話せて良かった。本当に楽しい時間を過ごさせてもらえたよ。」
「それなら良かった、ぼくも楽しかった。また会えるかな?」
「そうだね、また来年にでも」
彼はそう言って深い闇へと消えていった。


夏のとても短い、ほんの少し懐かしい人と出会える時間のこと。それを日本ではお盆と云う、死者が訪れてくる束の間の出来事だ。

祝日ラプソディ2

早朝、目が覚めたらベランダにロケットが聳え立っていた。その雄々しき姿に寝起きの悪いわたしでもあっという間に意識が覚醒したのは言うまでもない。

テレビでは冬季オリンピックのダイジェストが放送されており、それによると日本はまだ金メダルを獲れてはいないみたいだ。わたしの家にロケットが備えられたというのになんて平和なんだろう。メダルの数を世界中が競っている間に、わたしは世界を揺るがす力を手に入れた。ロシアや北朝鮮の陰謀を超えて、キューバ危機の再来かもしれない。

周辺の住民もまだ誰も気づいていないみたいだし、スマホにはそりゃもちろんのご都合主義でロケット起動アプリがインストールされている。 これはチャンス!

だからわたしはロケットの先端にチョコを結びつけ、起動ボタンを押すのだ。

 

今日は2月14日、ハッピーバレンタイン!

祝日ラプソディ1

「七月の第三月曜日」


 日も傾きだしたので、夕食を作るために台所に立つ。それでも食欲がわいているわけではなかった。ビールを飲みながら簡単に鶏肉と野菜を炒め、スープを温める。今日は暑い一日で、すぐに背中から汗が滲みだしてきた。出来あがった皿をテーブルに並べ、ゆっくりと、作業的にそれらを口に入れる。全てが味気なく感じ、咀嚼の音だけがあたまに響いてきた。食べ終わるとまた台所へ向かい、一つ一つ丁寧に皿を洗う。

 すべてが片付くとソファに座り、ひたすら時間が流れていくのを待った。たまにテーブルに雑多に置かれている本を手にとってはみるが、何一つ内容はあたまに入ってこない。それでもベッドに入るにはまだ十分に時間がある。時計の針は静かに時を刻んでいる。けっきょく、仕方なしに外を歩くことにした。

 街の空気は湿り気を帯び、身体にまとわりついてくる。遠くからは人々の騒ぐ声や、車のクラクションが響いていた。それらに背を向けながら、薮の生い茂る道ともない道をくぐり抜けていくと、そこにはまっ白い空っぽの浜辺と広大な海が横たわっていた。日は完全に沈んでしまってはいたが、夏の始まりの暑さはしっかりとそこにしがみついている。タバコに火を着けあたりを見回してみると、遠くになにか白いかたまりが見える。目を凝らしてみると、そこには一人の少女がひっそりと座っていた。

 少し経ってからタバコを消し、彼女の方へ向かい声をかけてみた。ときおり吹く風に、彼女の長い髪が微かに揺れる。

 返事はない。

 すると、少女はそっと立ち上がり、靴を脱がないまま波の中に足を踏み入れていった。細い脚に周期的な波が打ち寄せる。

「ねえ、こんな時間に何をしてるの」さっきより大きな声で話しかけてみたが、やはり返事はなかった。

 膝ぐらいまでの深さになったところで少女は立ち止まる。スカートの裾が濡れ、必要以上に重みを持つ。時間は静かに流れ去っていく。

「海がね、海がとても綺麗なの」彼女はつぶやく。

「そうなんだ。でもね、もう日も暮れてしまったし、こんな時間のこんな場所にキミみたいな女の子がいるのは危ないよ」ぼくは言う。

「きょうは大丈夫なの、海はちゃんとわたしに開いてくれてるから」彼女は言う。

 ぼくはどうすることもできず、彼女をしばらく眺めていた。頭上には雲一つない空が広がり、そこに星々が美しく瞬いている。もう一度着けたタバコの煙が風に揺られながら途切れることなく空に昇っていった。

 心を決めて脱いだ靴を浜辺に並べズボンを捲りあげ、ぼくも海の中に入っていく。ひんやりとした冷たさがとても心地よく、砂の確かな質量を足の裏に感じることができた。

「キミはどこから来たの」ぼくはたずねてみる。

「すこし遠いところ」

「電車で?」

「電車で」

「そうなんだ。まあ、まだこの時間なら終電とかは大丈夫だろうけど。なんだってこんなところに一人で来ようと思ったの」ぼくは聞く。

「わたしにもよくわからないの、なんでだろうね」彼女はくすっと笑う。「ただ、きょうここに来ればとても気持ちいいんだろうなって、そう思ったの」

「たしかにね、きょうはとても暑かったから。水を浴びるにはちょうど良い天気だ」

「うーん、それとはちょっと違うかな。なんだろう、きょうは特別な日なのよ。海がみんなに開いてくれている、そういう日なの」

「そっか」ぼくは答える。

 きょうは七月の第三月曜日、それは海の日だった。

読書感想3

 ゆく年があり、来る年がある。

 除夜の鐘は大晦日の夜に響きわたり、時計の針は0時に向けて回り続ける。街に漂う人々は通り過ぎてゆく時間を静かに見守る。

 一年、また一年と時は過ぎていく。我々が意識しなくとも、それは絶え間無く流れ続ける。

 

 連続的な時間の中で、人々はどのように過ごしているのだろう。

 人は未来を知ることはできず、過去を忘れることができる。認識というものは断片的なもので、都合の良いようにいくらでも解釈することができる。幸せなことだけを想像し、辛かったことは無かったことにする。そうして日々の欠片を必要な分だけ寄せ集め、それを自分とする。

 では、拾い集められなかったものたちはどこへ行くのだろうか。失われたものたちはどこに属せば良いのだろうか。

 

「断片的なものの社会学」岸 政彦

 

 社会学というものは、流行や社会問題といった人間によって引き起こされる様々な現象を、それらがどのように形成されたのか習慣や伝統、地域性といった人々の生活の流れから汲み取り、それらを一般化する学問だ。

 多くの実例を並べ、それらを使って帰納的に結論を導き出す。インターネットやその他メディアから情報を収集し、あるいは特定の生活を送っている人々に対してインタビューを行い、それらに共通する項目をまとめることによって出来上がる。

 

 一方で、集められた情報の中にはあまりに個人的過ぎて一般化することのできないものや、逆に普遍的過ぎてわざわざ取り上げる必要のないものも、もちろん含まれている。誰しもが聞き手にとって都合の良い生活や、興味を惹かれる特別な経験を常に携えているわけではない。

 

 この本では、それら共通項として拾い上げられることがなかった、社会学足り得なかった断片たちが紹介されている。物語としての始まりや終わりはない。ただそこでたまたま起きた、あるいは思いついた取り留めのない事柄が羅列されている。

 

 路上で弾き語りをしている中年男性や風俗嬢との対話、香港の刑務所に入っていたという男の話。一つ一つの背景を取り上げれば確かに特殊な人々ではあるが、当たり前のことだが彼らにも特殊ではない日常を持っている。風俗嬢であろうが前科持ちであろうが、各々の趣味を楽しむし、ごく普通の家族や友人だっている。そんなものを記事や論文にしたところで特に真新しい発見を提示できる訳ではない。そして、そういったものは我々の日常にも数多く潜んでおり、たいていの場合は何事もなく忘れ去られていく。だれも一週間前に食べた夕食の内容や、人と交わした世間話の全てを憶えていようとは思わない。そんな些細な物事は記憶には残らない、残す必要がない。

 一方で、当たり前の日常が特別な意味を持つこともある。

 映画やドラマで、ありふれた日常が壊れて初めてそのかけがえの無さに気づくという展開を目にしたことがあるはずだ。家族、恋人、仕事や学校といった当たり前にあったものを失ったときの喪失感。悲劇や事件が起きて初めて、我々は当たり前の日常の大切さに気づくことができる。永遠など存在せず、日々の暮らしの中にある些末な断片たち一つ一つがかけがえのないものであったのだと感じる。

 そしてこの日常は、当然のことながら誰もが持っている。通勤電車の会社員や学生、街を歩く若者たち、顔も名前も知ることのない人々。その数だけ日常がある。

 しかしながら、自分の日常のかけがえのなさに気づいていたとしても、彼らの日常のかけがえのなさを知ることはない。もし彼らの中に、日常のかけがえのなさを知らない者がいたとしたら。その日常はもちろん我々も知る由もない。そうなってしまうと、その日常は誰にも気づかれることなく、ただその場を通り過ぎていくだけとなる。そして、このようなことは世界中で起きている。

 

“そこに最初から存在し、そして失われることもなく、だが誰の目にも触れられないもの”たち。断片たちは、永遠に知られることなく所在なく漂う。

 

   他人の日常に僕らはどれだけ触れることができるのだろうか。その美しくも残酷に捨てられていく日常に。それはどうのように頑張っても触れることのできないものなのかもしれない。

 人間は本来的に孤独である。こんなにも多くの人で溢れかえっているのに、お互いを理解することは非常に難しい。知ることは難しい。

 だからといって全ての物事を悲観的に見てしまうことは間違っている。全てを理解しようとする必要はどこにもない。全ての人間を救うことはできない。

 ただ、隣にいる愛する人の手をしっかりと握っていよう。どんなに時に流されていこうとも、決して離してはいけないものがある。

 手の届く人たちとの何でもない日常を大切にすることだけが、いまの僕にできる精一杯のことなのだ。

読書感想2

「ねぇ、163cmなんだって」

「え、なに?」

「桜の花の落ちるスピード。163cm」

 

 

 

 

 そんな訳はない。それはぼくの身長だ。

 

 子どものころ、自分の住んでいる環境がどうしても嫌で、大人になったら好きなところに行って、好きなことができると思い込んでいた。

 たぶんそれはぼくに限った話ではなく、一般的な子どもが抱く、一般的な感情だと思う。勉強がどうだ、部活がどうだ、門限がどうだ。親や教師にしつこく言われる日々。大人になったら自分の好きな世界を作りあげてやるのだと。そういった時期は誰にでもあったはずだ。

 

 ぼくは今と変わらず幼い頃から背が小さく、体育の整列のときは常に一番前で腰に手を当てていた。本屋に行くと上の棚に手が届かず、店員に頼むか、側にある踏み台を引きずって、そこからさらに背伸びをしてなんとか指先を背表紙に引っ掛けることができた。

 大人になると大きくなれる。今とは違った世界が待ち受けている。そう信じて成長期が訪れるのを心待ちにする。世界は広く、身長と年齢が増せば、いつの日かもっと遠くに手が届く日がやって来るのだろう。期待に胸は膨らむ。

 

 やがて中三になると一年に10cm近く伸び始める。心躍る日々の到来だ。自分より大きかった女の子たちを、いつの間にかちょっとだけ見下すことができるようになる。声も低くなり始める。これでぼくも大人の階段に一歩足を踏み入れたのだと。嬉しくてたまらなかった。

 まあ、そんなのもつかの間で、高三になるとぼくの成長は止まった。柱の傷はいっこうに更新されることはなく、二重、三重に線が描かれる。いつまでたっても身長は163cmのままだった。

 

 

 現実とはそういうものだ。

 

 

 それからぼくは東京の大学へ進学し、今では立派に会社勤めをしている。十分に大人になったはずだ。

 それでも、時折思う。自分はどこにも行けていない。世界はいっこうに広がらない。27歳を迎えたいま、なぜ自分はこんなところにいるのだろう。本屋の一番上の棚にも、期待していた世界にも手が届くことはなかった。

 

 

 

 「ティファニーで朝食を」は、ぼくが最も好きな小説の一つだ。

 

 おそらく、オードリー・ヘップバーン主演の古い映画の方が有名だろう。まあ、この映画はちゃっかりラブロマンス的に仕上げられ、試写会で初めて目にしたカポーティはあまりの違いに驚き、椅子から転げ落ちたという。

 

 主人公が語り手となる形式をとり、ホリー・ゴライトリーという一人の女性を描いた物語だ。ホリーは言うなれば、天真爛漫、自由奔放といった感じでニューヨークの街中を闊歩し、毎晩のように自宅に男たちを呼び込みパーティを繰り広げる生活を送っていた。

 主人公はホリーの上階に住んでおり、たびたび彼女に振り回されることになる。鍵をなくしたと彼の部屋のチャイムを鳴らし、変な男に追い回されていると非常階段から窓を叩く。深夜でも早朝でも関係なく。

 それでも彼女は魅力的で、どこか親しく思えてしまう瞬間を持ち合わせていた。それはおそらく、彼女のそのきらびやかな生活の中に、確かに潜んでいる影の所為なのだろう。わがままな女だと思う一方で、ときおり彼女の幼さ、無邪気さが見え隠れする。そして何より、彼女が抱え込んでいた世界に対する不安を見逃すことはできなかった。

 

“自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、わたしはなんにも所有したくないの”

 

 彼女は自分が飼っている猫に名前を付けずにでいた。それは自分がなにかを所有するのを拒んでいるということだけではなく、むしろ自分の方こそどこにも、何ものにも所有されていたくないという思いから来るものだったのだろう。きっと自分という存在をしっかり受け止めてくれる世界が、ここではないどこかにあるはずだ。たとえばティファニーのような。

 彼女はそんな不安をごまかすかのように、セレブリティの一員として派手な日々を繰り返した。

 

 そしてある日、ちょっとした手違いから警察に追われることとなる。その出来事は新聞の記事を通して世間に広まる。親しくしていた人々はあっという間に彼女との関係から身を引いていく。

 よくある話だ、彼女には何も残らなかった。

 それについては彼女も当然のことだとわかっていた。なにかを所有することも、何ものかに所有されることも自分から拒んでいたのだから。

 

 ここは彼女の場所ではなかった。

 

 それでも彼女はあきらめきれず、ちゃんと腰をすえられる場所を求めた。その思いを信じて、南米へと旅立っていった。

 

 そしてある日、主人公のもとに葉書が届く。彼女はブエノスアイレスで元気に過ごしているという。それを読んで思うのだった、彼女は自分の居場所を見つけることができたのだろうか。

 

 ホリーはきっと見つけることができたのだろう、そうでなくては困る。ぼくとしても27歳といっても、日本人の平均寿命でいえばまだまだ先は長い。恐ろしく長い。

 たとえ身長が163cmしかなかったとしても、いつの日か自分の居場所を見つけることができるはずなのだ。それまでしっかり背伸びして、高く手を伸ばしていたい。

読書感想1

「西瓜糖の日々」リチャード・ブローティガン


 年をとると考え方が凝り固まってきてしまうもので、20代後半を迎えたぼくも例外なくそれがやってくるのを事あるごとに感じさせられる。日々の退屈な生活の中で探求心は失われ、精神をすり減らしながら惰性で過ごすことによって立派な大人として今ある生活にしがみついて生きていくわけだ。

 

 あんなに好きだった音楽も新しいアーティストを探すことなく、たまに買うCDは昔から好きだった人たちのものばかり。興味をそそられるイベントがあったとしても外出する億劫さに負けてしまったり、仕事帰りは馴染みの定食屋に寄るかほっともっとのハンバーグ弁当と缶ビールを買って一人寂しく食べる。

 

 そんな生活を送っているとそりゃもちろん死にたくなってくるわけだが、たまーに調子が良いときは何か新しいもの探すかーって気分になってくれる。それが上手くはまってくれたときにはそれが一時的なものであったとしても生きる実感を噛みしめることができる。

 

 ここ最近その波がやってきて、リチャード・ブローティガンの小説を読み漁っている。彼はビート・ジェネレーションの括りに入れられていて、ぼくは高校くらいの頃にその辺りにはまってビートの代表格であるケルアックやらバロウズを読み耽っていた。しかしながらブローティガンには一度も触れることはなく、というか彼はその代表格より少し離れたところにいたため、その頃のぼくは彼の存在すら知ってもいなかった。ミーハーなので有名どころを読んで満足していたわけだ。

 

 そんな中、近所の古本屋に格安で置いてあったので何の気なしに購入したのが「西瓜糖の日々」だ。

 

 どこか不思議な世界が飾り気のない表現で淡々と記されており、これがまあ非常に面白い。話の大枠としては主人公の住むコミューン "iDEATH" と無法地帯 "忘れられた世界" とで繰り広げられる物語。「iDEATH = 主体性が死んだ生活」と「忘れられた世界 = 自由を求めて社会を捨てた生活」のやりとりで、当時(1960年代)の大衆社会とその頃に流行り廃れて行こうとしていたヒッピームーブメントを表していると思われる。

 

 過去の話のように思えるけれど、会社員として主体性を殺して日々をやり過ごしていた自分にとってぐっときたわけだ。頭の中でどうにも納得できていなかったものをブローティガンは簡潔に物語という形式でまとめてくれていた。

 

 主人公は"iDEATH"に住み、ガールフレンドや友人たちとひっそりと暮らしている。物語が進むにつれて、ガールフレンドが徐々に"忘れられた世界"に惹き込まれていき、主人公はそんな彼女に対して少しずつ興味を失っていく。あるいは嫌悪すら感じ始める。

 

 物語の最後ではガールフレンドは"忘れられた世界"の住民に取り込まれ自殺し、主人公は主体性を殺したまま、それでも穏やかな生活を送ることを選ぶこととなる。その結末に納得できるかどうかは別として、ぼく自身の今の生活の中での見直すべきところやら何を選ぶべきかについて、ある程度の手応えを持つことができたような気がする。

 

 この先どう変えていけるかはまだわからないけども、これを手掛かりになんとか前に進めることができれば良いなと思う。